| どうでもいい言[ごん] 母からの聞き書き 遺言[いごん]、ゆいごんとは死を自覚した人が死後の処置について身寄りの者たちに言い残すことや言葉であると辞書にある。人は必ず死に遭遇する存在であるが、すべての人が必ず遺言を書いたり残したりするとは限らない。そんなものに関心のない人もいるだろうし、そのうち書こうと思っているうちに、仕事や雑事、事件や災難で書かずに生を閉じる人もいることであろう。一般にはゆいごんというが、遺言[いごん]が正しい読み方のようだ。その遺言をする環境はいろいろあると思うが、昔から遺言が話題になったり問題になるのは、資産相続に関する場合が多いようだ。所謂、欲にからんだ肉親達の争いに発展するわけである。いやらしい話が多い。わが濱田家のように、借金こそないが財産も資産もない家庭にとっては、関係のない、心配する必要のないことである。自慢の対象にはならないが、しかし、それ以外の条件で、遺言が存在してもおかしくない筈である。私のこの遺言は、勿論後者の遺言の類である。したがって、子供達も親族も必要としないし、関心もないであろう。あってもなくても「どうでもいい」遺言なのである。「どうでも良いごん」なのである。したがって、目の色をかえて真剣に読んでくれる必要はないし、読まなくても痛くもかゆくもない、無責任な肩のこらない随筆的遺言なのである。 先祖についての文献的なものもほとんどない(その事についても書き度い) これから書くのは、ほとんど母からの話である。生前、時々母が話してくれた物語りが主である。従って、嘘や誇張はないにしても理論性、科学的なものではなく、感覚的、感情的であるかも知れない。私はそれでもいいと思うし、私にとっては、尊く懐かしい昔話なのである。 先ず、話してくれた母について。 母は変わり者でも、偉人、傑人の類[たぐい]ではなく、ごく普通のおだやかな婦人の一人であった。地味でどちらかといえば少し小柄で、特別目立つような姿もそぶりもない、ごく当たり前の婦人だったと思う。美人ではないが福相というか、しもぶくれの穏やかな人相で「おふくさん」という愛称で近所の人達にも親しまれ、好意をもたれる存在であった。母の生家は神奈川県相模原、その頃は高座郡麻溝村当麻の俗称「市場(いちば)」である。 その当時(大正末年)、麻溝という村は人口五百人位の寒村であり、村は下溝と当麻の二つにわかれ、当麻が更に市場と宿という二つの集落によって構成されていた。市場は上溝を経て八王子に通ずる県道を挟んだ二、三十家の部落であった。このなだらかな傾斜の県道沿いに沿って、清冽な小川が石垣に囲まれて流れていた。部落の人達は家庭にほとんど井戸があり、飲料水はその井戸に頼っていたが、この小川の清水の流れを大事にし、洗濯や洗い物、風呂水にも使っていた。この清水は「ハナゲート」(お花が谷戸の意)と呼ばれる市場の北端の小さな山の森の中から湧き出ていた。その昔、一遍上人が修行中、オハナという、この当麻の一少女に懸想されたそうである。一遍上人は思想堅固な青年修行者だったので、ひたすら修業一途の苦業の毎日を送っていた。その為、オハナはとりつく島もなかったようである。失恋したオハナは、この谷戸に籠もり出家してあま(尼僧)となり、この谷で生涯を終えたという伝説を私達は聞かされていた。前述のように、部落の人達は、この谷を「ハナゲート」と呼んでいた。この市場の中央に母の実家、石井家があった。石井家は村の財閥でも資産家でもなかったが、一応の格式をもった中堅の農家で、家主の高蔵氏は村議会議員の経験もあり、部落の顔役的存在でもあった。母はこの高蔵氏の伯母(叔母)に当っていたようである。この辺りの家系や家庭家族組織関係の正確なことは、幼い僕にはよく解らなかった。が、大体以上のような続き柄であったと思われる。母につれられて石井家に行くと、高蔵氏の父親に当たる石井宗十郎というデップリした顔の老爺が据物のように座敷の上座に坐っていたのが印象に残っている 私達幼児は、この老爺のまわりを鬼ごっこでかけめぐり、それぞれつかまえられ、ビンタをもらったのを覚えている。かなり痛かったのである。 母はこの石井家に育ち、二十歳前にかなり遠い見増(みませ)という村[現:神奈川県愛甲郡愛川町三増?]の資産家に嫁がされたとのことである。のんびり育った母は、素直に両親の言葉に従って嫁入りをしたのである。恋愛結婚でも何でもない。家と家との付き合いの行事の一つのようなものであったらしくい。その頃として、は特別珍しいケースではなかったようである。両親の言葉に従って、見ず知らずの男のところに嫁いだわけである。嫁に行った処は、当麻からはかなり離れた、三増というところで、当時にしては異境のような処だったらしい。問題は母の夫になった相棒の男である。たしかに資産家ではあったが、彼はそこの評判の与太息子であったのだ。遊興三昧の日が多く、家庭にまで芸者連中がくりこんで騒ぐこともあったらしい。要するに、近所からは敬遠され、嫁にきてがないので、遠い村の娘である母がその犠牲になったわけである。母は面くらい驚いたらしいが、我慢したらしい。やがて妊娠し、一女を産んだ。それが"あき"である。嫁という立場であっても、家計をまかされたわけではなく、下碑と同じように奴隷的にただこき使われるでけだったらしい。流石の母も耐えかね、到底この家に、この男の妻として一生生活することは出来ないと考え、当麻の実家へ身一つで逃げ帰ってきた。所謂、出戻り娘になったわけである。つらかったと思う。やがて仲人が中に入り、正式に離婚が成立し、実家の石井家で働くことになった。農業も手広く、家族も多く、養蚕もやっており、忙しい農家であった。そのうち縁があり、再婚し、濱田の家に入ったのである。再婚相手は濱田権十郎であった、俺の親爺である。権十郎という名前は何か歌舞伎役者のような名前だが、当の権十郎さんは、歌舞伎などとは縁のない、小学校の訓導であった。 今度は、いよいよその濱田権十郎さんの話になる。島根県に浜田という町がある。学生の頃、そこに友人が居り、遊びに行って浜田という姓を喜ばれたことがある。遠い昔の話だ。鈴木という姓は多いそうだが、濱田という姓はそう多くはない。小学校の時、歴史の本の中で、濱田弥兵衛という人の名前を発見し、喜んだことがある。ひょっとしたら、この弥兵衛さんは遠いわが家の先祖かも知れない、などと想像をたくましくしたことがある。「家なき子」を読み、俺もひょっとしたら子爵か伯爵のこぼれ種かも知れない。或日、突如として高級車がわが家の前にとまり、若様お迎えに参りました等といって、家来共が頭を下げる日もあるかも知れないなどと、空想にふけった。そんな幼い日の遠い昔の空想をもてあそばないで、もう少し近い濱田権十郎さんや、濱田という姓の話である。正体はミミッチイつまらない話になってしまう。相模原[座間?]の皆原という処に鈴木という大きな屋敷の旧家がある。勿論、今でもある。明治の末年であったと思う。この皆原の次男か三男が分家することになった。ところが、近所に濱田という跡取りがなくなり、家系の絶えた家があった。そこで鈴木の次男か三男かが、濱田の姓を名のり、その家(濱田家)を継承することになったのである(その事を当時の役場が了承したのであろう)。したがって、今の濱田家は系統からすれば鈴木なのである。わが父、濱田権十郎さんは、その後胤に当たるわけである。戦国の武将、濱田弥兵衛の後裔ではなかったのである。俺の親爺(父)(親じゃ人の変化という)濱田権十郎さんは、恵まれない生涯を送った人だった。私の手元には、小さな写真が一枚だけ残っている 。普通の家庭では、亡くなった父親の日常品など沢山あり、生前の思い出になる品物が多い筈である。父の遺品は、小さな日記帳とこの写真一枚が父の遺品である。こんな不自然な経緯もその頃の母の環境を物語っている。父、権十郎さんは、私の生後半年ぐらいで病没(七里ヶ浜の病院で肺結核で亡くなった。痔瘻でも苦しんだらしい)したので、私には全く記憶にはない。病院で嬰児の私の小さな手足を撫でて可愛がってくれたらしい。 |
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